マックのソフトクリームを買うということ

こんにちは。会いたくなかったです。

 

突然だが、マックでソフトクリームが100円で売っていることは皆よく知っていると思う。ソフトツイストだ。

 

私は一時期、100円しか出さずに済む手軽さと、それなりの美味しさに一時期よく仕事帰りに買っていた。

 

しかし、ある時それを買うのをきっぱり断ったのである。

 

それは何故か。

 

もともと貧乏性の私は、コンビニでも自販機でも100円を超えるものは買うのが抵抗がある。

 

あと20円とか30円多く払うだけでシンプルなベースの上に+‪αされた魅力的な商品が多くあるのにだ。

 

マックのソフトクリームでいえばマックフルーリーなどがそうではないか。それか日本人が好きな期間限定品とか。

 

2-30円の差などシビアに家計管理でもする状況の人でない限り大した影響はない。

 

寧ろ、たったその差で精神的な満足感がでて、また明日から頑張れるのなら安い投資である。

 

恐らく一般的には。

 

だが、私のような曲がり物には、そうでもなかったりする。

 

美味しそうな写真に負け、20円試しに多く投資してみる。結果、それがそれほどの満足感がなかった時、まぁこんなもんか。次から買わないでおこう。と思える人間ならいいが、私は違う。

 

とても損した気分になり、少なくとも1時間くらいはモヤモヤした気持ちになるのである。

 

しかも、そういった精神状態になると嫌なことを思い出したりもする。

 

負のスパイラルである。

 

たかが、2-30円のせいで私はその日嫌な思い出しかなかったみたいになってしまうのだ。

 

なので、そんな自分の性格を知っているためマックではソフトツイストしか買っていなかったのだ。

 

だが、あれは作るスタッフによって個体差がでる。

 

アルバイトなら下手なりに量が多くなり、こちらとしては嬉しい。

 

しかし、チーフマネージャーみたいな社員っぽい人がやると、大変小さい(比べると)のが出てくる。

 

この差のせいで、喪失感がある。

 

恐らく社員が作ったソフトツイストの量が本来のマクドナルドジャパンが規定するマニュアルなのだろう。

 

始めから社員の作るソフトツイストしか知らなければ、こういうものだとしか認識しないからガッカリすることもなかったはずだ。

 

しかし、実際はどちらの作り手のも手にする機会がある。

 

そして、社員とバイトとのあの個体差。

 

バイトが大きなソフトツイストを作って手渡された時はラッキーな気持ちになるが、社員からあのミニマムだが形のよく整ったソフトクリームを受け取るときは落胆する。

 

バイトが出した方が本来のものでは無い偶然の産物でありながら、そっちを期待せずにはいられない。

 

そしては、小さいソフトクリームを食べながら私は思った。

 

金を払って、なぜこんな悲しい気持ちにならないといけないんだと。

 

決して社員のソフトツイストでも損したわけではない。それが本来の100円の価格設定に見合ったサイズだからだ。

 

バイトが出したサイズがサービス量なだけ。

 

だが、どうしても損した気持ちにならずにはいられない。

 

この気持ちを回避するために私が出した答えは1つ。

 

買わないことだ。

 

買わなければ、どんなサイズのソフトツイストが出てくるか考えず、そしてその結果次第でヘコむこともない。

 

何も別に私は、そのソフトツイストに生かされているわけではないのだから。

 

退勤後の必需品ではない。

 

ちょっとした楽しみは他にまた探せばいいし、ちょっとした楽しみなのだから見つけるのは難しくない。

 

こう考えると、つくづく私は人生を楽しみづらい性格だと思う。

 

ソフトツイストだって、今日は大きいか小さいか、そのドキドキ感を楽しんでどちらの結果になってもポジティブに受け入れられる人は間違いなく私と全く同じ人生を歩んでいたとしても精神的な幸福度は、私よりずっと高いだろう。

 

例えば、飲食店で食べたいメイン料理を注文しようとしたとする。

 

しかし、店員からストック切れでこれから焼き始めないとならないので時間がかかると言われたとする。

 

ここでどう考えるか。1つは、焼きたてが食べれて自分は運がいい。ぜひ注文しようという考え方。

 

対して2つ目は、そうか。時間がかかるのか。ツイてないな。別のを頼むか(食べたかったのになぁ)。モヤモヤ

 

同じ状況なのに考え方次第でえらい違いである。

 

その時の状況にもよるが、恐らく私は後者側の人間なのだ。

 

この差は、恐らく心の余裕だろう。

 

だが、この心の余裕はどこから培われるのだろうか。

 

私は、それはもともとの育ちの環境にあると思う。

 

人の考え方や性格って大体10代までに構築されると思う。

 

そして、その時期までに大きく影響を受けるのは育ての親である。

 

例外はあるだろうが、育ちの良い人間は心の余裕を感じることが多い。

 

そして、私の育ちはお世辞にも良いとはいえない。なので身をもって感じているので、この理屈に納得している。

 

なので、精神的な余裕のある人には憧れるし、なりたいと思って、考え方を変えようとする。

 

だが結局、私の素は違うのだ。表面上演じることはできても、心から出来ていないのだから意味が無い。

 

それでも、継続していれば私もなれるのだろうか。

 

それを知るには私はまだ若すぎるのだろうか。